2019/04/23

模倣と創造について天才と謳われたニュートンの名言から考察します



創世記

ミケランジェロ システィーナ礼拝堂天井画




1 創造という単語から想起されるイメージ




創造という単語から、何を思い浮かべるでしょうか?

ある人は画家や小説家など、何かの作品を生み出す芸術家を想像するかもしれません。

ある人は、「人生を創造する」といった粋なフレーズかもしれませんし、はたまた、「天地を創造する」といったスケールの大きな言葉かもしれません。



2 模倣という単語から想起されるイメージ


では創造の対義語である模倣からは、何を思い浮かべるでしょうか?

おそらく、パクリ・猿真似・二番煎じといったイメージが沸き起こると思います。

つまり、創造という単語からは正のイメージが想起され、模倣はその逆で負のイメージが頭に浮かんできます。



3 なぜ創造が善で模倣が悪なのか?


では、なぜ創造が素晴らしく、模倣が駄目なのでしょうか?

その理由は、ヒトという種の自己複製方法が、単純なコピーを繰り返す無性生殖ではなく、雌雄を掛け合わせる創造のような有性生殖だからのような気がしますが、ともかく模倣者がオリジナルを主張したら、それは手柄の横取りになるとは言えます。

先日、利己的な遺伝子で有名なリチャード・ドーキンスが、「唯一人間だけが遺伝子に反逆できる」といった内容のことを主張しているとの記事を読みました。

私はこれと同じことを自分の頭で思い付いたのですが、あるときダーウィンの何かの本を読んでいたときに同じことが書かれていました。

ドーキンスがダーウィンをパクったのかは分かりませんし、私も「利己的な遺伝子」を過去に途中まで読んでおり、もしかしたらそこに記載があり、何かの拍子に表出し、ドーキンスをパクった形になったのかもしれません。

先ほど述べたように、模倣者がオリジナルを主張したら、それは手柄の横取りになりますが、自分が思い付くことは、同じように他の誰かも考えているものだと思われます。



4 天才・ニュートンも模倣とも言える名言を残している



朝日新聞の天声人語(2019年4月22日)にもありましたが、ニュートンの有名な言葉である、


もし私が、他の人たちよりわずかでも遠くを見たとすれば、それは巨人の肩に乗っているからです。


は、1世紀・ローマ帝国時代の詩人、マルクス・ルカヌスの言葉である、


巨人の肩の上の小人は、巨人よりも遠くが見える


の言葉と似通っています。


朝日のコラムでは、このニュートンの言葉を引用する前に、脚本家の倉本聰氏がセリフをパクルことについて語る逸話を載せており、ある種のアイロニカルというか、含みを持つ味な話の展開でしたが、このニュートンの表現が剽窃なのか、模倣なのか、借用なのか、オマージュなのか、無意識の表出なのか、自分で産み出したのかは分かりませんが、誰かがいいなと思った表現は、他の誰かもいいなと思っており、似たような言い回しをどこかで無意識に使用してしまうことはあり、また誰かが思い付くことは、他の誰かも考え付いているものです。



5 模倣は発展と捉える事もできる



もっともこのニュートンの言葉は、発展と捉えることもできるかもしれません。

学問とは、ニュートンの言葉のように、様々な定理などを少しずつ借用や応用しながら巨人になっていったのであり、また進化にしても、少ししか違わない変異を少しずつ繰り返しながら、全く違う多種多様な生物を産み出してきました。

パクった人間が平然とオリジナルを主張するようでは、よろしくないですが、似たような表現は意図せずして起こることだと思われます。

こんな私にも、どうしても他の作家の表現を借用せざるを得ない場面がありました。

それは、嵐の後の空を表現するのに、真っ先に三島由紀夫の表現が思い浮かび、どうにか使わないよう他の単語を探したのですが、それ以上にしっくりくる表現が見つからず、先人に敬意を表しつつも借用したことがあります。

たった三語の組み合わせとはいえ、三島の作品に詳しい人が見れば同じ表現だと気付くはずであり、私もパクったと思われたくなかったのですが、それ以上の表現が見つからなかったため、やむを得ず、先に特許を取られたような気分を含みつつも、有り難く使わせてもらいました。

このように表現が似通うのは仕方がないことだと思われ、全くのオリジナルな表現とは、文学での突飛な比喩だけのような気もします。


6 模倣に近い改良の積み重ねが打製石器から日本刀へと飛躍した


そしてまた、オリジナルを少し改変することはパクリとは言えず、それは、石を打ち砕いただけの打製石器から、いきなり切れ味の鋭い日本刀が登場する飛躍は起きないように、発展の過程とは、幾つもの模倣に近い改良の積み重ねであり、その小さな差が積み重なった結果、石器時代からAI時代へと飛躍を遂げたことを考えれば、似たような表現も着想も歓迎すべきなのかもしれません。

つまり、創造と模倣のあいだ、とは常に揺らいでいるものであり、またオリジナルから小さな差異を積み重ねてきたからこそ、世界が発展してきたと言えると思います。

ただし、その積み重ねてきた技術の発展が、人間を幸せにしているかどうかは、また別の問題なのかもしれません。



参考文献


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