小学一年生にとっての必需品といえば、その小さな肩に背負うランドセルです。
近頃では、待ちきれないお子さんのために、入学式の一年も近く前から探し始めるご家庭もあるようです。
そして今は昔と違い、黒や赤だけでなく、水色や茶色などカラフルなランドセルを選ぶことができ、また刺繍が施されていたり、ステッチの色を変えられたりと、時代の移り変わりを感じずにはいられませんが、小学一年になる前の息子と、大きなランドセル売り場に行ったときのことです。
その幾つもある色の中で息子の欲しい色を聞くと、「銀」という答えが返ってきました。
(へえ、銀ね。ふーん、シルバーか……)
私はややモヤッとした感情を抱きながら、
「何で銀がいいの?」
と聞いてみました。
すると息子は、
「だって、カッコイイじゃん」
と答えました。
「何で銀が格好いいと思うの?」
と更に聞くと、
「カッコいいんだもん」
という曖昧な答えが返ってきました。
私は、子供に馴染みのある銀を想像してみましたが、漫画の「銀魂」ぐらいしか思い浮かばず、我が家には関連のものは置いてありません。
そこで、息子の好きな戦隊モノの仮面ライダーで銀色のキャラクターがいるか聞いてみると、「うん」と言い、
「仮面ライダージオウ」
と答えました。
ジオウとはどんなキャラなのか調べてみると、テレビ朝日系列で放送中のヒーローもので、変身すると胸にシルバーのラインが浮き出る衣装を身にまとっていました。
息子が銀色のランドセルを欲しがった理由がようやく分かり、また私自身も、幼い頃に似たような戦隊モノの、「サンバルカン」の黄色いキャラクターが好きだったことを思い出しました。
息子がこのような理由で銀のランドセルを望んだとあれば、親としてその気持ちを尊重したいところですが、初めに銀が欲しいと聞いたとき、もやもやした感情が湧き起こりました。
その理由は、
「男は黙って黒にしとけ!」
と思ったからです。
この感情を突き詰めてみると、
(息子よ、ランドセルの色なんかで自己主張するのではなく、中身で勝負しろよ)
との想いがありました。
奇抜な衣装や言動で人の目を引いたものの、中身は大したことがなかったでは目も当てられません。
また、商品や名付けなどにも当てはまることですが、外から見てどんなに良く出来ていても、大事なのは中身です。
どんなに流暢な英語が喋れても、中身がスカスカでは意味がありません。
実際に日本では、江戸時代の寺子屋で使われていた教科書「実語教」の最初の文言は、
「山高故不貴 以有樹為貴(山高きが故に貴からず、樹有るを以て貴しと為す)」
本当の価値は外観ではなく中身である。
と記されているように、そのような文化を育んできました。
もちろん見た目が重要なのは分かります。
「人は見た目が9割」という書籍や、「人は見た目が100パーセント」という漫画もあるように、第一印象から受けるイメージは大きく、その後の評価を決定付けてしまう場合もあるでしょう。
料理の味でさえも、視覚による影響が大きく左右すると言われるように、外面が良いために、それに釣られて内面も良く見られる場合があることも確かです。
また、外見にもオリジナルがあって当然で、それは個性にもなるでしょう。
また、外見にもオリジナルがあって当然で、それは個性にもなるでしょう。
しかし、外面が立派すぎたり奇抜だと、中身はその割に大したことないとか、看板倒れとか、名前負けしているとか、張り子の虎とか、見掛け倒しとか、そのファーストインプレッションのインパクトにより、中身が正当に評価されない危険性があります。
もっとも、奇抜や立派な外面で、尚且つ内面も本物であれば言うことはなく、ランドセルのケースでも、その刺繍はイケてるねと言われたり、ステッチの色はセンスがあると思われたり、あいつは変わった色のランドセルを身に付けているから、中身も味のある人間に違いない、と興味を持たれて関係が発展する可能性はなきにしもあらずですが、ここで私が抱いた感情は、
息子よ、外面だけを追い求める格好だけの人間には成らないでおくれ
との想いでした。
また、この感情を更に突き詰めてみると、保守的な思想にもぶち当たりました。
保守という言葉は、世間では愛国の意味で用いられており、また、愛国でも何でもない安倍政権を表す言葉として誤用されていますが、本来は「従来の方法を変えない」という意味です。
保守的な人間とは、
良く言えば「決まりを守る、規律正しい者」
悪く言えば「頭が固い、頑固者」
になるかと思いますが、この規律を求める想いが隠れていることにも気が付きました。
意見や態度をころころ変える人間が、節操がないとして信用されず、風見鶏という言葉が人を揶揄する意味で用いられているように、変えない、つまり何かを守るということが、日本では特に肯定的に捉えられている節があるようです。
勿論こちらも状況によりけりで、変えるのが明らかに正しい場合もあります。
基本的に私は自由を推奨しているものの、歳を重ね、また人の親になった影響だと思われますが、ことランドセル選びに関しては、
今まで通りの黒でいいんじゃねえのか?
と思った次第です。
そこには、
そんなところで格好つけるな
どっしり構えていろ
という意味合いが多分にありました。
ただ、たかがランドセルの色ぐらいで文句を言うのは、どうにも小さい人間であり、また、ここで親が黒を押し付けたら、息子は自分の意思を否定されたことになり、そもそも、女の子が赤というのも単なる決まり事に過ぎません。
今のウイルス騒動でも、様々な種類のマスクが発売され、皆それぞれ好きな色や柄を選び、また自分で作成するなど工夫して楽しんでいます。
という訳で、このときも結局は銀でいいか、という考えに落ち着きましたが、息子が最後に選んだのは黒色でした。
その理由は、通うことになる学校が、男の子のランドセルは黒色と指定していたからでした……
おあとがよろしくないようですが……
ただ、もしこのとき息子が、
「俺は銀じゃなきゃ、学校には行かない」
ぐらいの意志を示し、それが単なるワガママではないと判断できたら、モンスターペアレントにならない程度に、この学校が色を自由に選ばせない理由ぐらいは聞いてあげようかな、と思いましたが、息子は黒でなければ駄目だと知ると、素直に分かったと答えました。
この態度を柔軟性と捉えるか、意志のなさと捉えるかは難しいところですが、今回息子のランドセル選びに付き合うことで、「自由と規律」という教育でも大事なテーマと向き合うこととなりました。
イギリスのパブリックスクールについて記された名著、「自由と規律」という一冊の本があるように、教育に限らずこの両輪は重要な事柄です。
同じようにランドセルの色取り取りも、教育における選択の自由といったテーマであることも事実ですが、行き過ぎた自由もまた問題を孕んでおり、何でもありの無秩序では困ります。
ただ、規律を厳しくし過ぎ、雁字搦め(がんじがらめ)にしてしまうと、身動きが取れなくなってしまいます。
この辺りの線引きは、要因によって様々に変わってきますが、ランドセルに関する私の最終的な結論としては、
ランドセルは何色でもいいよ、人間は中身が大事であり、内面を磨くべきである。
というところに落ち着きました。
おあとがよろしいようで……
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