生前の彼には賛否両論が渦巻き、亡くなってなお論争を呼んでいる。
批判は以下のとおりである。
単独無酸素登頂が嘘だ
その嘘で金を集めるな
元ニートも売り出すための嘘だ
登山家としての実力は3、5流
できもしない無謀な挑戦を掲げるな
危険を売り物にした客寄せパンダだ
スマホを弄るために指を凍傷して馬鹿みたい
これがどこまで本当か分からない。
だが、法螺や見栄で命を張り、かっこつけて死んだ男がいてもいいじゃないか。
「冒険の共有」を掲げ、登山の状況を中継することで見られてる自分を意識し、酔っていたのかもしれないし、引くに引けなくなったのかもしれない。
また、彼の実力からして、万に一つも成功しないルートへの挑戦を執拗に責める者もいる。
だが、他人を巻き添えにしたわけでもなく、一人で死という責任を背負った男を誰が責められようか。
自分の行動に対し、自分で責任を取ったのであり、外野がとやかく言うことではない。
口さがない言葉も飛び交っているが、彼が命を賭けた事実は変わらない。
偽善で募金をしても、受け取る側の意味は変わらないように、彼の動機がどんなに不純でも、その活動に勇気付けられた人が一人でもいたならば、それでいいではないか。
ストイックに己の限界に挑戦するアルピニストは確かに素晴らしい。
そして、そのような大衆受けしない人間にこそ本質があり、私もそちらの方が好きである。
だが、たとえ彼が見栄や法螺を吹いてたとしても、そこらの俗物には真似できない命を張る行為をしてきたのである。
あっぱれじゃないか。
もう彼の悪口はやめようじゃないか。
「お前らたとえハッタリでも、命賭けられるものあんのかよ?」
栗城にそう問われて、動揺して否定している奴もいるんじゃないか?
代わり映えのない毎日を肯定するために、必死に彼を否定している奴もいるんじゃないか?
彼は馬鹿な男なのかもしれない。
彼は踊らされていたのかもしれない。
彼は周りが見えなくなっていたのかもしれない。
だが命を張った事実は変わらない。
私は喝采を贈る。
R.I.P.
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