2018/04/19

親の期待に応えたい子供とストックホルム症候群



日本では五月五日のこどもの日が、男児の成長を祝う端午の節句となっており、どの家庭でも五月人形を飾ります。

昨今は、スペースの都合や出し入れのしやすさから、コンパクトなものが好まれますが、昔は大きなものが主流でした。

そして、その大きさや豪華さを子供への愛情表現としたり、子供への期待と比例しているケースもありました。

大抵の親は、子供が産まれるとこう考えます。


自分が若い頃にできなかったことを、子供にはやらせてあげたい。


これがエスカレートすると、次のように変化します。


自分が叶えられなかった夢を、子供に叶えてもらいたい。


そして、自分の不遇を引き合いに出し、子供に期待を押し付けたりもします。

私の母親も、子供に過度な期待を掛けるタイプの親でした。

そして、家の床の間に飾られていた五月人形は、それは豪華なものでした。

端午の節句になると、床の間にデーンと巨大な鎧兜が据えられ、大小の刀も添えられていました。

当然ですが、そんな母によって育てられた私と兄は息苦しさを感じていました。

しかし、子供は親の喜ぶ顔が見たいですから、期待に応えようと一生懸命頑張ってしまいます。

これが、人生を自分のためではなく、親のために生きる始まりとなります。

こんな境遇を、特に兄は、早くから様々な反抗の形で、象徴的な五月人形の刀を手に取って親と向き合ったりと、親の影響下から脱しようと試みました。そのように親の呪縛を認識し、そこから逃れようとできればいいですが、子供にとって親は生存のすべてを依存する大きな存在で、全面的に否定するのは簡単ではありません。

そのため、兄も私も完全に母の影響を脱するのは先のことになりました。

もっとも、二人とも最悪な事態に陥らなかったのは、少なくとも愛のカケラを感じていたからかもしれません。

そして、このように期待を掛ける親は、時として禁じ手を使うことがあります。

それは、


言うことを聞かないと、貴方を捨ててしまうわよ


という恐ろしいメッセージです。

これを幼少期にやられると、逃げられない子供は服従せざるを得ません。

ストックホルム症候群という、拉致監禁された人間の心理を表す状態があります。

この症状は、銀行強盗で囚われた人質が、自らの延命のために、時間の経過とともに犯人に依存していき、さらには共感や愛情すらも感じてしまったというものです。

極限状態とはいえ、精神の発達した大人でさえ、無意識に極悪犯へと情が芽生えるのですから、未熟な子供なら尚の事であり、恐怖で子供を支配することなど簡単であることが分かります。

親からの虐待が容易に解決できない理由はここにあり、嫌な思いを感じたくないため、恐れが愛情など何らかの感情に変換されてしまうからです。

「絶対貧困」という一冊の書籍の中に、極端な事例ですが同様の記述があります。

本の内容は、世界におけるスラム、路上生活、売春といった社会的弱者の暮らしを詳しく紹介しているもので、そこに、とある犯罪組織が、その国の各地から赤子を誘拐し、路上の物乞いたちに対し、悲惨さをアピールするための手段として1日いくらでその赤ん坊を貸し出しているという記述があります。

それだけでも眉をひそめてしまう内容ですが、さらに、その誘拐した赤ちゃんが小学生ぐらいの年齢に達すると、犯罪組織は、彼らの身体に障害を負わせて物乞いをさせるというのです。

この障害を負わせるという行為も、悲惨さをアピールするための手段ですが、その障害の種類というのが、目をつぶしたり、唇・耳・鼻を切り落としたり、顔に火傷を負わせたり、手足を切断したり、などの酷い内容とのことです。

著者は多額のお金を積み、犯罪組織であるマフィアの隠れ家を訪れたとき、なぜこのような残酷なことをするのかと思わず言ってしまったようです。

しかし、何とそのとき、目を潰されて物乞いをさせられている障害児が、マフィアをかばって次のように著者へ言ったとのことです。

「マフィアは何も悪くない。きっと僕がダメなことをしたから目をつぶされたんだ。すべては僕がいけないんだ。だからマフィアを怒らないで下さい」

引用 「絶対貧困 世界リアル貧困学講義」P242 著者石井光太 新潮文庫


自分を幼い頃に誘拐し、さらには各地で貸し出され、そのうえ鋭利な刃物で目をつぶされ、犯罪組織の金儲けのために、障害者として路上で物乞いをさせられているにも関わらず、そのマフィアをかばったというのです。

つまりこの発言は、著者も記しているように、この障害を負わされた子はマフィアと暮らす以外に選択肢がないため、自分の精神が恐怖で異常をきたさないよう、自分を利用する犯罪組織が悪いのではなく、自分が悪いのだと自らを納得させて生きていたのです。

カルト宗教が弱者を取り込み、依存させ、利用するのも似たような手口です。

一般の家庭でも、親がどのような考えで子供に接しているのか様々なケースがあり、また親が無意識に行っているケースもあると思いますが、似たようなことが起こり得ます。

ただし、人生とは、過去の出来事がどこでどのようにプラスに作用するかは分かりません。

私のケースでいえば、母親が私に掛けた期待は、自分を引き上げるきっかけにはなりました。

しかしそれは、やはり結果論として言えることかもしれませんので、親は子供に対する影響力を認識し、一人の人格ある人間として接するよう気をつけるべきだと思います。

ここに一つの言葉があります。

日本に茶の湯を確立した村田珠光が残したものです。


心の師とはなれ 心を師とはせざれ


この言葉は、珠光が弟子の古市澄胤(ふるいち ちょういん)に送った手紙「心の文」に記されたものであり、その直訳は


自分が心の師になるべきである。心を師としてはならない。


であり、その意味するところは、


心に支配をされてはいけない。自分が心を操縦しなくてはならない。


です。

言葉の原典は、仏教の経典・大般涅槃経にある、

「願作心師 不師於心」

であり、これは、最近注目を集めているメタ認知と関わってくる概念で、自分を客観視するもう一人の自分の大切さを述べています。

この言葉は、すべての人が心に留めておくべきだと思いますが、子供にこの言葉を説いても、なかなか理解はしてもらえないかもしれません。

だからこそ親たちは、精神が未熟な子供への影響力を認識し、特に虐待を愛情と受け取ってしまうストックホルム症候群に陥る危険性を考慮し、接していくべきだと思います。






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