誰しも成功を望んで生きているはずですが、そもそも、成功とは一体何でしょうか?
お金・地位・名誉の獲得でしょうか?
それとも、人々から羨望の眼差しを集めるカリスマやインフルエンサーになることでしょうか?
そうではなく、成功とは、自分の好きな事を見つけ、それを努力して磨き、その能力を社会に還元し、そのことに喜びを感じることだと私は思います。
この回答が、社会的な動物である人間にとって一つの解だと考えていますが、別の側面から検証してみます。
幕末の志士・吉田松陰は、まだ何も成し遂げていない己の死を前にして、それは惜しむべき事ではないと以下のように書き遺しました。
この回答が、社会的な動物である人間にとって一つの解だと考えていますが、別の側面から検証してみます。
幕末の志士・吉田松陰は、まだ何も成し遂げていない己の死を前にして、それは惜しむべき事ではないと以下のように書き遺しました。
吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり。然れども義卿の身を以て云へば、是れ亦秀実の時なり、何ぞ必ずしも哀しまん
現代語訳
私は三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったに似ているから惜しむべきかもしれない。だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである
松陰はこの文に続けて、
私の真心を憐れみ、受け継いでくれる人がいるならば、それは蒔かれた種が実り、収穫があったと言えるだろう。同志たちはこのことをよく考えて欲しい
と記しました。
実際その言葉の通り、松陰の死が弟子たちの奮起を促し、歴史に大きなうねりをもたらしました。
よって松陰としては、松下村塾で教えを説いた弟子たちが活躍し、外患に屈していた幕府が倒れ、社会に変革が巻き起こり、それをあの世で喜んでいたならば、一応の成功者と言えるのかも知れません。
では史実とは違い、もし官軍が負けていれば、松陰の死は失敗だったのでしょうか?
また、もし弟子たちが松陰の死に感化されなかったとしたら、松陰の死は失敗になるのでしょうか?
そうではないのです。
人間は社会的な動物であり、日常には多くのしがらみが存在し、無条件に己を突っ張ることはできません。
麻雀をする人なら分かりますが、自分が上がるため、何でもかんでも危険な牌を切っていけば、他人に上がられる確率は高まり、最後は飛んでしまうでしょう。
実際に松陰は突っ張った挙句、斬首が待ち受けていました。
幕末といった激動期だけでなく、現代でも無条件に己を貫けば、敵ばかり増えて爪弾きに遭い、社会的に抹殺されたり、最悪の場合は命まで取られてしまうかもしれません。小泉・安倍政権下で起きた数々の不審死を顧みれば、建前は法治国家の日本でも、例外ではないことが分かります。
よって、社会は現状の力関係の中で予定調和を作り出し、誰しもが表と裏の顔を使い分け、割り切って生きていきます。
しかし、それは自分が生き延びるための方策でしかありません。
作家の山本周五郎は、人間が持つ打算を超えた一面を、「日日平安」の中で描きました。
作家の山本周五郎は、人間が持つ打算を超えた一面を、「日日平安」の中で描きました。
この作品は、黒澤明監督が映画化した「椿三十郎」の原作として知られていますが、映画と小説は主題が違います。
小説の物語は、道を往く若侍が声を掛けられ、振り返って見ると、道端に一人の男が座り、着物の衿を広げて胸と腹を出している奇妙な場面から始まります。
その端座する主人公の浪人は、切腹の介錯をお願いすると言いながら、金の無心を始める滑稽な話として進んでいきます。
そして、この主人公の浪人・菅田平野は、引き止めた若侍・井坂十太郎の人の良さに付け込み、井坂の藩が抱える御家騒動に介入し、助太刀をすることであわよくば金や仕官を得ようと目論見ます。
菅田は口八丁手八丁で作戦を遂行し、自分に責任が及ばないよう上手く取り計らいながら、中心となって首尾よく御家騒動を解決します。
これにより、当初の思惑通りその功に与る可能性が出てくるのですが、菅田は声が掛かることを待たず、その場から去って領地から出ていってしまうのです。
本人は道を歩きながら、お前は何をやっているんだと自問自答します。
激しい空腹に襲われつつ、自分の行為を虚栄や偽善かもしれないと疑いながらも、高邁ですがすがしい感情に包まれます。
結局、最後は馬で駆けつけてきた井坂に登用を持ちかけられ、物語は円満に終わりますが、読者はこれを読んだとき爽やかな風を感じます。
このように、打算を超えた行為に人間の本質があると私は思いたい。
ここに一つの言葉があります。
白珠は 人に知られず 知らずともよし 知らずとも 吾し知れらば 知らずともよし
自分の真価は、人に知られなくとも、自分だけが知っていればよいのだ、という意味の歌ですが、己を何の打算もなく貫いた松陰の気高い精神は、松陰自身も、最期に立ち会った奉行所同心の吉本平三郎も知っています。
また、首斬り役を務めた7代目山田浅右衛門吉利は、松陰の一糸乱れぬ堂々たる最期の態度に感嘆し、その様子を後世に語り継いでいます。
しかし、他の誰もが一切知らなくても、己だけが知っていればそれで充分だと私は思いたい。自分自身を貫いたことを、自分一人さえ首肯すれば、それでいいのではないでしょうか。
社会的な動物である人間にとっての成功とは、自分の好きな事を見つけ、それを努力して磨き、その能力を社会に還元し、そのことに喜びを感じることだと思いますが、もう一方で、自分が自分であることを自分自身に証明すること、そんな成功があってもいいのではないでしょうか。
参考文献
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