2017/02/11

一度しかない死を観念的にではなく体感する方法を、ジョブズの有名な卒業スピーチから紐解いてみる




Free-PhotosによるPixabayからの画像 



アメリカの大学では、卒業式に著名人が来て、学生に向けて演説するのが習わしになっているようです。

日本でも例はあるものの、一般的ではないようです。

自分の卒業式を思い返してみると、学長が何かのメッセージを発した記憶はありますが、ひどく曖昧で頭には何も残っていません。

学長が興味を引く話ができなかったからなのか、私の感性が鈍かったからなのかは分かりませんが、式の間はひどく退屈で、これが終わればいよいよ社会に出ていくという実感もなく、一つの区切りとして参加していたにすぎませんでした。

もしその式に著名人が来て、含蓄のある言葉を贈ってくれたならば、その後の人生が変わっていたのかは分かりませんが、人生の荒波を経験した人物の話を聞けたのであれば、少しは卒業式が違ったものになっていたのかもしれず、また学長自身にもあったはずの人生の荒波を、学長自身の口から聞きたかったとも思います。

では、アメリカの大学で数多くの著名人が行った卒業スピーチの中で、特に有名な、Appleの創業者であるスティーブ・ジョブズのものから、冒頭に提起した死を体感する方法を考えてみたいと思います。

スピーチ動画はここでは省略しますが、ジョブズはスタンフォード大学の学生に向け、人生をいかに生きていくべきかについて、自分自身の経験を踏まえ、自分の言葉で、以下のように述べています。


自分の好きなことを必死で探し、仕事にしろ

困難に遭遇しても信念を捨てるな

死を意識して生きろ

自分の心や直観に従う勇気を持て


この中で、死を意識することについて取り上げます。

スピーチの途中で、


「毎日これが人生最後の日だと思って生きなさい。やがて必ずその通りになる日が来るから」


とジョブズが言ったとき、ここで学生たちは笑います。ジョブズは笑ってもいないのに。

つまり学生たちは、人間にとって死は必定という紛れもない真実を、真剣に捉えていないということを表しています。

若いうちに癌の宣告を受けたり、九死に一生を得たりして死の淵を覗き込むことは、ほとんどありません。


現代の先進国では、他人の死はもとより、身内の死を看取ることも減っているのでしょう。


核家族化の著しい日本では特に顕著であり、人生において死を意識する機会はあまりありません。

また、全ての人間にとって自分の死は一度しか経験出来ないため、あくまでも死は観念的にしか把握することができません。


江戸時代の狂歌師である大田南畝は、以下のような辞世の句を残しています。


今までは


人のことだと思ふたに


俺が死ぬとは


こいつぁたまらん



死に直面したとき、大抵の人間がこれに似た感情を抱くのではないかと思います。


その理由は、人間には自分の生命を維持して守る自己保存の本能があるため、その対極である死について、普段は意識の埒外に置いて生きているからかもしれません。


これを嘆いたのが佐賀藩の侍・山本常朝です。

太平の世になり、死が身近でなくなった江戸時代中期に、


「武士道というは、死ぬ事と見つけたり」



という一節で有名な葉隠を説きます。

常に死を覚悟し、明日をも知れぬ世界を生きていた戦国武将や幕末の志士の生き様が、我々の心を捉えて放さないように、現代に生きる我々も、常日頃から死を意識することで、生がより輝くものになるはずです。



「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることをするだろうか」


このセリフを日々自分に問い掛けることで、我々も充実した生涯を送れるはずです。

そしてジョブズが最後に締めた言葉は、


Stay hungry.Stay foolish.


常に貪欲に、そして愚か者でいることを恐れるな


いい言葉ですね。

死を観念的にではなく体感する方法や、観念としての死を超越する方法は恐らくないかもしれませんが、常に死を意識し、何かを渇望し、貪欲に、人の目を恐れずに、自分の人生を生き切りたいものです。

そして人生の最後に、


冥土にも 粋な年増が いるかしら


と詠んで締めくくったとされる落語家の三升家小勝氏のように、粋なセリフを残して終えられたら最高でしょう。



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