作家・遠藤周作氏の代表作といえば、マーティン・スコセッシ監督によってハリウッド映画にもなった「沈黙」を挙げる方が多いかもしれませんが、私は「侍」に一票を投じたいと思います。
まず「沈黙」を代表作として選べない理由は、沈黙の主人公であるポルトガル人司祭・ロドリゴにそれほど共感が持てなかったからです。
沈黙の舞台は、1638年に起きた島原の乱(島原・天草一揆)以降のことで、キリスト教信者に対する弾圧は激しさを増しています。
作中に「栄光ある殉教」という言葉が登場しますが、囚われる確率が高く、その場合は間違いなく拷問に掛けられるにも関わらず、そこまでして日本に渡ってくるのが、仮に中世から近世の物語とはいえ、宗教に殉じる行為を肌感覚として持っていない日本人としては理解しにくいところです。
ただその後、イエス・キリスト受難の物語や、イエスの弟子である12使徒が、キリスト教を世界に広めていく過程で受けた迫害と殉教の歴史を詳しく調べ、また時代時代の殉教者を色々と知るうちに、おぼろげながら殉教の意味が分かるようになりました。そのとき理解の助けになったのは、遠藤氏の別の書である、「イエスの生涯」と「キリストの誕生」でした。
そこに描かれていたのは、神の子・イエスではなく、弱者に寄り添い、惜しみない愛を注ぐ一人の人間の姿でした。
そしてそのイエスの最期は、か弱き者たちの永遠の同伴者になるため、罵声と嘲笑を群衆から浴びながら、磔(はりつけ)にされて死んでいきました。
槍で刺し殺される磔刑という結果になったのも、自分を裏切った弟子逹たちが原因でしたが、そんな弟子たちをも、愛で包み込もうとした人間がそこには描かれていました。
そんな心優しい師イエスを見たことで、弱虫で裏切り者だった弟子たちが強い心を獲得し、殉教も辞さない強い使徒に改心していきます。
また、新約聖書・ヨハネによる福音書・第15章13節にある、
人が友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない。
There is no greater love than to lay down one's life for one's friends.
といった言葉や、ドイツの作曲家・大バッハが、イエス受難に基づいて奏でた、
「マタイ受難曲」
といった荘厳な調べも耳にしました。
これらを勘案すると、キリスト教にとっての殉教という行為が少しだけ見えてきます。
そして、中世のキリシタンたちは、殉教はパライソ(天国)への道であり、天国に行けば永遠の生命を獲得できると信じていました。
そのため、多くの信者が過酷な拷問に耐え、さらには死を受け入れることができたとの歴史的背景を整理した上で、もう一度沈黙を読んでみると物語に入ることができましたが、一方の「侍」の舞台は1613年であり、関ヶ原の戦いから13年後の大坂冬の陣の前年に当たり、江戸幕府によるキリスト教禁教令は1612年と1613年に出されていますが、それほど徹底されてはいません。
また、主人公の宣教師・ベラスコが危険を冒して日本で布教する理由として、世俗的な野心が中心となっているため、物語として理解しやすいのです。
実際、ベラスコのモデルとなったルイス・ソテロは、そのような人物だったと言われています。
そのような小説「侍」は、史実を基にした作品です。
仙台藩主・伊達政宗は、徳川家康の許可を得て、通商目的のためにスペインへ180人余りの使節団を送ります。
その帆船によって、太平洋を横断した使節団の正使兼通訳のスペイン人・ベラスコと、副使である仙台藩士・長谷倉の二人を主人公とした物語が本書になります。
仙台藩士・長谷倉のモデルも、もちろん実在の人物である支倉常長となっています。
とにかく、描写と会話の絡み合いが名人芸を見るようで鮮やかであり、臨場感がひしひしと伝わってきます。
そして、劇的なラストへと収束していく。
この展開は、凡百の言葉を並べ立てても説明できません。
百聞は一読にしかず。
是非読んでみてください。
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